神様。の人生の話
どうも、神様です。
話す事もないので、組織が正しく成り立つ前にとても大切なお話をしておこうと思います。
ちなみに今日でマイクラ歴が丁度四ヶ月になります。神様です。
私は極普通の一般家庭の生まれです。
極普通、と言うべきかは分かりません。
あなたの基準では普通では無いかもしれません。
少なくとも私にとっては私の家庭が極普通な家庭だったのです。
私の家は所謂ゴミ屋敷というもので、床の踏み場も無い家で小学校時代を過ごしていました。
物心がついた、と言うよりはっきりと記憶があるのは小学四年生からです。
その時には既に家には母と、三番目の兄と、四番目の兄と、姉と、私で住んでいました。
一番上の兄と二番目の兄はその頃には大阪市に居たのだと思います。
家は先程もゴミ屋敷と言いましたが、酷い有様でした。
足の踏み場もなくて、まともに勉強できる場所も何も無い。
お風呂場まで行くのにも一苦労でした。
主に我が家ではらんちゃんと呼ばれているアイツ(アイツです、黒いアイツ)を初めとして特に夏には色んな虫がいました。
そんな家庭で、尚且つ母は朝早くに出ていって夜遅くに帰ってくるものだったのです。
私は授業を受けなくても100点を取れるタイプの子供だったので学校に行くのが煩わしくなり不登校になりました。
学校に行っても宿題をやっていることの方が稀で、その事で一度クラスメイト全員の前で謝罪させられたこともあります。
自業自得でしかありませんが、その事がトラウマなんでしょうね。
未だに10人以上の前に立つと足が震えます(笑)
そんなこんなで私は小学五年生の頃から施設に行くこととなりました。
行くまでに母の知り合いに可愛がられることが多かった私はその方と銭湯に行き、その方が銭湯で暴れたおかげで警察のお世話になったりと色々ありますが。
それは割愛しておきます。
というかその方が銭湯の店長さんに「二度と来んな!」って言われた後に店長さんに「またきます」って言ったら優しい微笑みで「待ってるね」って言われた記憶しかない。
はい、施設に行くことになったんです。
当時は姉も義務教育を終えていない中学三年生でしたから姉と一緒にでした。
施設では色んな人がいました。
それこそハーフの子もいましたね。
当たり前ですがみんな得意なこともそれぞれ違っていました。
そんな色々な子が一つの部屋に収まる程度とはいえ沢山いるのに、全員が家庭に問題がある。
その事実から目を逸らしてはいけないと、少しだけ思ったのでした。
そんな思いをした一時保護施設から、正式な児童養護施設に移ったのは丁度姉は修学旅行に行く頃、私は臨海学校に行く頃でした。
そこでもまた色々な人がいました。
一時保護施設と比べ沢山の人がいました。
私は小学生の面々とすぐに仲良くなれました。
学校でも、せっかくなので臨海学校の実行委員を務めたり、児童会に加入したりと色々やらかしてました。
転校してすぐだったものですから、同級生からは転校早々児童会に加入した奴、と変な印象を持たれていた気もします。
施設で同年代や一つ年上、年下と喧嘩をすることが多くなりました。
施設内で一つ年下の同年齢の子に、最初は暴力で、次からは性的に虐められました。
恐らく性的に虐められた、の内容は皆さんが想像しているのとは違いますけどもね。
暴力で虐められた一回は窒息して控えめに言って死にそうになりました。
それから物を隠されたりとありましたが、あれは暴力ではありませんしどう言う虐めだと言えばいいんでしょうね。
学校でも同じクラスの子に虐められるようになりました。
施設とは違って陰口や無視だった分、嫌だなと思うことが多かったです。
でも、施設での虐めよりも傷つきました。言葉は刃ってこういうことです。
その虐めの主犯格に私が転校して最初に友達になった二人がいたからかもしれませんが。
それからまた色々ありつつも、小学六年生の二学期の頃にこちらに戻ってきました。
その頃には私の実の父は消えていて、代わりに母の彼氏を名乗る人物がいました。
母の彼氏の人(以下.Kさんと表します)と母は毎日のように喧嘩をしていました。
当然小学六年生だった私が大人の怒鳴り声に耐えれるはずもありませんでした。
私が純粋に弱かっただけかも知れませんけど。
私は、今でも大人の、特に男性の怒鳴り声が苦手です。
怒鳴り声でなくても、突発的な大きな音がとても苦手です。
はっきり言ってしまえば、怖いです。
中学校に入ってもKさんが家から消えることはありませんでした。
むしろ、六年生の最後辺りから同居状態となっていました。
徐々にストレスを感じた私は中学一年生の一月でしょうか。
夏休みだったかもしれません。
自傷行為に手を出しました。
見えにくいところを切ったり、敢えて友達に「知らないうちに傷出来てるんやけど」なんて言って見せたりして自分でつけた傷ではないようにみせていました。
結局、一月最後の宿泊系の行事でお風呂担当の先生にバレてしまったわけですが。
中学校では体調を崩すことが著しく多くなった他、目立ったことは無かったように感じます。
中学二年生の頃には、元から日光にあたるのが苦手だった、弱かった私は体育大会の練習に片手で数えられるほどしか参加できませんでした。
参加出来ても途中で見学するばかりでした。
また、普段の学校でも午前中で早退を沢山していました。
一週間毎日早退したこともあります。
Kさんが母に、私の父とのことに「不倫は楽しかったか」。私のことを「不倫で産んだ子やろ」。
そう言っているのを聞いて、今まで募っていたストレスもあり、耐えきれなくなった私は自粛期間中のとある日に自殺しました。
……未遂に終わりましたが。
中学三年生になり、前々から朝に体調の怠さを感じていた私は病院で起立性調節障害だと診断されました。
朝に体調が悪い私は午前中殆ど動けず、学校の午前授業に参加出来なかったりそもそも学校に行けない日々が続きました。
その結果、受験生というのにも関わらず授業に追い付けていません。
なので今、授業に追いつけるように五教科の貰える教科からはプリントを貰って頑張っている訳ですが。
こんな感じのが生まれてから、正確には小学四年生からの私の人生です。
短いといえば短い人生でしたが、私は性格が悪いなぁと思う出来事がいくつもありました。
その中でも一番思うのが、現在ドメスティック・バイオレンス(DV)を受けている母を見ているだけで助けもしないことです。
私が自傷行為を行っているのを知った先生が、「自分を傷つけるなら俺を殴れ」と言うのになんで他人なのにここまでできるんだろう、としか思えないことです。
実際、私は性格悪いんですよ。
最大多数の最大幸福を願っています。
でも、そんなことは不可能であることを知っています。
分かっていても願ってしまうことを愚かだとは言いませんが、それでも。
それでも、最大多数の最大幸福なんて夢のまた夢だと思うのです。
今日。人は死んで、悲しんで、苦しんで、人を殺して。
けれどそんな世界を人は今日も平和だと言うのです。
そんな世界が私は大嫌いでした。
大嫌いだ、と叫んでいても私がそんな世界で生きていることに変わりは無いのです。
私がそんな世界を、平和だと思っていることは事実なのです。
私は救いようがないくらいに性格が悪いのです。