『原爆』と『戦争』と『平和』の話
お久しぶりです、私です。神です。
さて、今回は特にやることが思いつかなかったので語彙力の限りを駆使して記事を書きたいと思います。
ということでその為に道徳でやりましたので『原爆』『戦争』『平和』を議題としてお話致します。
昨日、8月6日は丁度原爆が落とされて75年経った日でした。
”75年間は草木も生えぬ”と言われた75年目です。
と言っても今回するお話は75年目ということに起因する訳ではないのですが、一度耳に(目に?)挟んでいただきたかったのです。
昨日は忙しく、今日も朝から夕方まで多忙を極めているので今日が回って30分も経っていない頃から書き始めているので恐らく皆様がこの記事をご拝読なさる時にはもう75年目ではないんですけどね。
では早速議題に触れていきましょうか。
出来事を分岐として話しますと、私としてはとある分岐によってYES・NOが違ってもどちらにもメリット/デメリットは付き物だと思っています。
今回の結論もこうなってしまうのですが、これを予めご了承ください。
原子爆弾によって日本は壮絶な被害を受けました。
しかし、それと同時に終戦という最大の幸福も得ましたね。
当時の人間にとって終戦の知らせが幸福の最大化となったのかは不明ですが、少なくともそれが現代日本に幸福を齎しているのは事実です。
なので、広島・長崎への原爆投下は起きてよかったと思えることなのかもしれません。
原爆投下がなければ今も戦争を続けていた可能性を踏まえるとです。
しかし、それは私が被爆者ではない且つ知り合いに被爆者がいないから言えるのであって恐らく私が被爆者側の立場であればこんなことは言えないでしょう。
寧ろ、戦争を忌み、戦争が起きたこと自体を無ければよかったのにと思ってしまうでしょう。
ここで考えてみましょう。
そもそも戦争が起きなければどうなっていたのか。
あくまで私の予想ですが、戦争が起きなければそもそもその中で結ばれた協定なども起きておらず、反乱や一揆が起こることも少なかったでしょう。
となると、反乱や一揆を諌める為の法などを制定しなくていいわけです。
日本のみならず世界でも同様でしょう。
この場合、レーニンが武装蜂起やらなんやらしてソ連設立まで行くのかは分かりませんが、多分行くでしょう。多分。
とにかくまぁ、そういった諌める為の法が制定されないということはその分法が緩くなるわけですね。
そうして世界的に法が緩くなり、犯罪率が上昇していったのではないでしょうか。
また、戦争が起きないということはそれの対義語たる平和という概念も生まれなかったのではないでしょうか。
戦争などで痛みを経験しない人間の中で、拷問や虐めなどはエスカレートして言ったのではないでしょうか。
そう考えると、一概に『戦争』なんてなかったら良かったのに、なんて思えませんね。
『原爆』が起きてよかったと言えないのも事実ですが。
結論的には、何が無くても有っても同様にメリットとデメリットが存在するわけです。
そんな感じですね。全然語彙力活用出来てないけど。